幸せになって欲しいと願う。
我が家のワンコは一頭は保護団体から娘が里親として譲りうけ
もう一頭は保護団体から流れ流れて最終的には我が家にやってきた。
たわしは多頭飼育で飼育環境が劣悪で「多頭飼育崩壊」というヤツで保護団体が保護したらしい。
ムータンは保護団体が保護した犬がすでに妊娠していて、出産をしたので保護団体先で生まれた犬という事になっている。
・・・・で、その保護団体で飼育されていた頃を私は知っている。
なぜなら、ボランティアとして通っていたからだ。
保護される犬は幸せだったら保護団体が介入するわけはないのだけど
どうして保護される動物が後を絶たないのか・・・
人間だって、職を失って生活が滞って困る人が居るし
働く気持ちがあっても何かしらの障害があって仕事をすることが叶わない人だっていて
子供にしても望まれて産まれてきたというばかりではなく、
望まれて産まれてきたとしても、その後の環境が変わってしまい
泣く泣く親子が離れ離れになることだってあり・・・・
この国の福祉はどこへ進んでいるんだろう・・。
私たちのモラルはどう確立されているのだろう?
そもそもモラルなど存在するのだろうか???
国が違えばこの国が常識とされているものは非常識にもなるのだから
モラルなんてその国特有のもので、本当は削ぎ落せるものが大半なんじゃないだろうか?
と、この歳になって考える事が多くなってきた。
クジラを食べない国。
犬を食べない国。
肉を食べない国。
一夫多妻な国。
子供の出生制限をする国。
狩をする国。
通貨で得る国。
君は生まれた場所が違えば食べられていたかも?
「幸せに・・・」と願う事すら国によって違うかも知れない。
でも、私は現代のこの国に生まれ、現在私なりに「幸せってこんな感じ」って
感覚を持っていて、それは自分に関わるモノ・コトのみに留まらず
見聞きする事に優先順位はあるけれど、多くにこのセンサーは反応する。
それは時代と共に移り変わってゆく誰かの力なのかもしれないし、
それによって刷り込まれた感覚なのかもしれないし
江戸時代には「お犬様」「猫様」と言われた頃もあったのに
現代はこんな感じ。
生きていくためには、誰かの何かを奪わなくては生きていけない命。
だから、わが身の幸せだけを願うのは傲慢であると言えるのだろうけど
「幸せになって欲しい」と願ってしまうのはいけない事なのだろうか・・・。
でも、皆が、自分の手の届くところのモノやコトに対して
「幸せになって欲しい」と願う事ができたなら不幸などなくなるだろうに・・・と
単純に思っていたいけど
命を奪う生き物である故、それは無理な事なのだとこの頃は思っている。
それを願うには複雑すぎる世の中だろうし
多様化しているからそんな単純にはいかないはずだから。
だから、ひっそり、ひっそり、ここで幸せを願う。
犬や猫のみならず、保護されるような命がなくなりますように。
少なくとも、保護という意味が本来持つ意味に戻りますように。
現代では理想とか空想とかの言葉に当てはまりそうなそんな言葉だろうけど。
幸せを感じる力を封じる事なく
生きるを楽しいと思えますように。